津田梅子の若い頃の顔画像(写真)!死因について!留学の学歴がある理由や経歴は?

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津田梅子さんが、広瀬すずさん主演で放送されるドラマ「津田梅子~お札になった留学生~」で取り上げられていましたね。

 

若い頃の顔画像(写真)や死因などが、気になる人はたくさんいるでしょう。

 

津田梅子と言えば歴史の教科書でも出てくる女性ですね。

新・五千円札にも肖像画が描かれているなど、日本人にもなじみのある女性ですね。

 

留学経験があったり大学を創設していたりと大雑把な人物史を知っている方は多いと思います。

しかし、詳細な歴史を知っている方は少ないでしょう。

 

今回は、津田梅子さんの若い頃の顔画像(写真)や、死因についてと留学の学歴がある理由や経歴などについて見ていきましょう。


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津田梅子の若い頃の顔画像(写真)!

津田梅子さんの、若い頃の顔画像(写真)を紹介します。

 

お札にも選ばれているものは、1900年頃のものだと言われています。

その頃はちょうど津田塾大学を設立したころで、津田梅子さんは36歳前後です。

 

母親のような優しい微笑みが素敵な写真ですよね(*^^*)

柔らかい雰囲気と空気感が伝わってきます。

 

津田梅子さんの若い頃の写真は、8歳ものが残されていました。

その頃はちょうど留学中でキリスト教の洗礼を受けたころで、幼児への洗礼ではなく成人と同じ洗礼を受けたのだとか。

 

フリルのついた帽子をかぶり、ケープにワンピース姿の津田梅子さんの顔画像(写真)は細い目元の落ち着いた雰囲気です(*^^*)

 

洗礼の司祭もしっかりしていたと感じたそうですが、やはりかなり落ち着いており大人っぽい雰囲気ですね。

 

ワシントン上陸直後の7歳ごろの洋装の写真もありますが、それもカメラに臆せずポージングしています。

切れ長の目元でのっぺりとした日本人顔ですが、洋装も似合っていますね。

 

 

津田梅子さんは、18歳ごろの写真では切れ長の目は垂れ目っぽい優しい雰囲気にかわり、大人っぽくなっていますね^^

 

子供時代ほうが大人っぽい雰囲気でしたが、このころは可愛らしい雰囲気も出ており日本人らしい童顔っぽい顔立ちです。

 

落ち着いた眉や鼻筋は小さいころから変わりませんね。

20代以降も可愛らしく優しい雰囲気で、着物が似合う女性です。

津田梅子の若い頃と現在の顔画像(写真)を比較してみた

津田梅子さんの、若い頃と現在の顔画像(写真)を比較してみました。

 

津田塾大学設立ごろの30歳以降で、比べてみるとあまり雰囲気の変わらない感じがします。

 

やや太い眉はきつくなく柔らかい雰囲気で、下がった目じりとやや上がった口角が母親のような雰囲気に思えますね(*^^*)

 

髪の結い方もきつくないからかあまり厳しい女性の感じはしません。

 

津田梅子さんの晩年の顔画像(写真)でも微笑み方は変わらず、顔がやや丸くなりましたが目元の優しい雰囲気も同じです。

 

死因が病気だったのは残念ですが64歳で逝去された写真を見る限りでは、かなり若いように感じます。

 

人と接し、教える存在として若々しく活動を続けていた津田梅子さんですから、年齢よりも若々しかったのでしょうね^^


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津田梅子の顔画像(写真)は美人とかわいいどっち?

津田梅子さんの、顔画像(写真)は美人とかわいいどっちなのか紹介します。

 

欧米人と日本人の基準は違うので、6歳から海外で過ごしていた経歴があるので大人っぽくなったのではないでしょうか。

海外の人からしたら日本人は総じて「童顔」と言われるので、可愛いと言われることが多かったでしょう。

 

のっぺりした顔の津田梅子さんですが、顔画像(写真)を見ると目鼻立ちはすっきりしていてきつい顔でもないですね(*^^*)

一重なのと目が細いのであまりぱっとした可愛さではないですが、可憐な雰囲気が素敵です。

 

成人以降はおしとやかな美人で、今の美人のようにはっきりした雰囲気ではないですが、安心感のある雰囲気と顔がよくあっていて美しいと感じます。

 

女子教育を推し進めた人物というともっと厳しい人を想像しがちですが、津田梅子さんはみんなの母と言う感じでしょう。

 

ほほえましく見守ってくれる感じがとてもいいですね^^

津田梅子の死因について!

津田梅子さんの死因を紹介します。

 

天国へ旅立たれた原因は、「脳出血」で64歳(1929年没)だと言われています

塾の創業期に健康を損ない、塾が軌道に乗ると1919年に50代で塾長を辞めて鎌倉の別荘で闘病していたのだとか。

 

逝去される直前には1923年に起きた関東大震災で被災した後者の寄付金を募るために精力的に活動していたと言われています。

 

津田梅子さんは、最後まで学校のために尽力したんですね。

最期の言葉は、日記に書かれた「Storm last night」なんだとか。

 

書きかけだったようで、死因と何か関係あるのかや意味は分からずじまいです。

津田梅子さんが脳出血という病気になった原因は、やはり塾創業期の過労やストレスでしょう。

 

まだストレスが原因の病は認識も低い時代ですので、働きすぎで体を壊したとしても静養すればよくなるイメージだったかもしれません。

 

しかし脳出血に至ったということは食生活の乱れや睡眠不足、ストレスなどが心身に影響していたのでしょう。

津田梅子に留学の学歴がある理由は?

津田梅子さんに、留学の学歴がある理由を紹介します。

有名なのは、岩倉使節団に同行して若い頃の6歳でアメリカに渡ったということです。

 

津田梅子さんの父親はもともとは幕臣でしたが、明治以降北海道開拓使の嘱託になっています

 

開拓次官の黒田清隆が女子教育に興味があり、女子留学生を募集していると知ると梅子を応募させたのだとか。

最年少の満6歳でサンフランシスコを経てワシントンに渡り、約10年にわたりアメリカで過ごします。

 

さらに7年ほどたった後に津田梅子さんは再度留学しており、ブリンマー大学を卒業します。

 

生涯で2度の留学経験を持つ津田梅子さん。

留学先できちんと学位も収めるなど、優秀なことがわかります。

津田梅子の経歴は?

津田梅子さんの、経歴を紹介します。

6歳で岩倉使節団に同行してアメリカに渡っています。

 

8歳ごろにはクリスチャンとして洗礼も受けており、小中学校にあたるインスティテュートにも通っていました。

 

英語やピアノを学び、ラテン語やフランス語なども学んでいたのだとか。

 

自然科学や心理学など、今では大学で習うような教育も受けており、中学教育を終了後に帰国しています。

津田梅子さんは帰国後すると、日本語にも日本の風習にも不慣れで不自由したそうですが、下田歌子に学び歌子が節理るした私塾で英語教師として働きます。

 

3年ほど教師をし、その後は留学時代の友人であるアリスベーコンの勧めで再留学を決意したといいます。

 

再留学した津田梅子さんは、ブリンマー大学で生物学を専攻している経歴があります

2年間の留学予定で、3年間の教育課程を切り上げて卒業しています。

 

米国にいる時代に日本の女性教育に関心を持ち、奨学金の設立や公演、募金活動などを行ったそうです。

その後に帰国して、華族女学校に勤めつつ自宅で女学生を預かるなどの支援も行ったんだとか。

 

30代になり官職を辞め、父や留学時代の友人らの援助を受けて津田塾大学の前身となる「女子英学塾」を設立しています。

 

その後は塾長として務めたほか、日本基督教女子青年会の創立など講演や議論をこなしていたと言われています。

50代で塾長を辞めて以降は別荘で静養を続けていたそうですが、1929年に脳出血で天国へ旅立たれました。

 

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津田梅子のまとめ

津田梅子さんの若い頃の顔画像(写真)は、細めで笑顔が可愛い印象でした(*^^*)

 

死因は脳出血だと言われています。

女性の自立を目指し、女性への教育の機会を広めた功績から2024年の新紙幣にも選出されています。

 

ドラマ化もされましたので、ますます津田梅子さんの生い立ち~生涯について身近に感じる機会が増えていくるでしょう。

 

経済的に自立した女性が当たり前の今の時代のきっかけを作り、女性の様々な活動を促す彼女は先見の明があったんですね。

 

大学は創立120年を超え、女性アナウンサーが多く卒業している津田塾大学は今でも高い偏差値を誇り、女子高生の憧れの学校として存在し続けています。

 

 

津田梅子の若い頃の顔画像(写真)!死因について!留学の学歴がある理由や経歴は?

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


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