NHKの朝の連続ドラマ「おちょやん」のヒロインのライバルの、モデルとも言われている「九重京子さん」の経歴や死因などが気になる方は多いのではないでしょうか(*^^*)
大正から昭和の時代は、本当に激動の時代だったのに、更に「女優」として立ち、その道を貫いていることから、意思の強い女性だったのでしょう。
若い頃の松竹時代は10年間以上も活動しているので、顔画像(写真)は宝塚の頃よりもたくさん撮られていると言われています。
渋谷天外(2代目)さんを、支える為にお仕事を引退されますが、今で言うバリバリのキャリアウーマンなので本心は家庭とビジネスとを両立したかったのではないでしょうか。
今回は、九重京子さんの経歴や死因についてと、若い頃の松竹時代の顔画像(写真)などについて見ていきましょう。
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目次
九重京子の経歴!
女優としての再出発…消えた千栄子を探し求めた人気芸人とは(幻冬舎ゴールドオンライン)#Yahooニュース 面白いねえ。
https://t.co/YQcQHgpVQ9— 銭柱:琵琶湖畔人 (@5103s) March 14, 2021
九重京子さんの、経歴をご紹介します。
大阪府の出身で、母親は、産婆(当時の助産師)で、父親のことは不明です。
お母さんは、お互いが「一人っ子」であったため、九重京子さんの「父親」との結婚を認められず、九重京子さんが産まれた後に、別れてしまったと言われています(>_<)
そのために九重京子さんは、父の名前や顔を知らずに育ったそうです。
そして、小学校を卒業した後に、「宝塚音楽歌劇学校」へと進学している経歴があります。
ですが「自宅から遠かった」ので、1年間だけの通学になっていました><
毎日のことですから、遠距離を通うのは大変だったのでしょうね。
その後は、昭和11年に「大阪松竹歌劇団(OSK)」に入り直して、女優の道を目指しています。
「九重京子」という名前は、芸名でこの時期につけたと言われています。
芸名の由来は、百人一首からとったんだとか。
風情があるお名前ですよね(^^)
この後は、若い頃の昭和22年に大阪松竹歌劇団を引退して、活動の幅を広げ巡業に出たり、歌謡ショーにも出演していたと言われています。
そんな時に、松竹は「松竹新喜劇」という新しい劇団を旗揚げし、九重京子さんにも誘いの声がかかり、この劇団に入団したのです。
その後は、運命の男性と出会い、男性が既婚者であったにも関わらず子供を身ごもり、修羅場を迎え、女優を辞め、出産後に家庭に入っています。
結婚後は、相手の男性を看取り、九重京子さんの死因は病気ではないですが94歳で「大往生」を遂げています。
九重京子の経歴は松竹時代と宝塚時代のどっちが凄い?
九重京子さんの経歴は、松竹時代と宝塚時代のどっちが凄いのかご紹介します。
「宝塚音楽歌劇学校」から「大阪松竹歌劇団(OSK)」へと入り直しています。
理由は、「通学するのに遠かった」からです。
毎日のことですから、通学は近い方がいいことはよくわかります。
ですが、宝塚を1年で辞めてしまったことは、とても残念というか、勿体ない気もしますよね。
宝塚と言えば、今でも「タカラジェンヌ」を目指す女性にとても人気の学校です。
現在の合格率は、恐ろしいほど高いですよね(>_<)
↓
現在は、テレビの番組内でも、タカラジェンヌを目指し、入学を目指す女の子たちの特集が組まれていることもあります。
当時の「宝塚音楽歌劇学校の合格率」は「5倍」くらいだったと言われています。
5人に一人の割合ですから、それでも高かったのではないかなと思います。
そんな、宝塚音楽歌劇学校に入学できたのですから、九重京子さんには、それなりの才能や容姿に恵まれていたのでしょう。
若い頃の宝塚時代は、たった1年間です。
ですが「宝塚に所属していた」という経歴は、とても強い影響力があったのでしょう。
その後は「大阪松竹歌劇団」に入り直していますから、おそらく「宝塚時代」には、これと言った経歴は、無かったのではないでしょうか。
初舞台が、大阪松竹歌劇団に入った後の「14歳の時」になりますので、経歴としては松竹時代の方が凄いし、多いでしょう。
大阪松竹歌劇団には、昭和22年まで在籍しています。
約11年もの長い期間中、飛鳥明子氏より振付を学び、芸名「九重京子」を名乗り、男役として活躍をしています。
このことを見ても、在籍期間の長さも関係しますが、宝塚時代よりも、松竹時代の方が凄かったと思いますね。
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九重京子の死因が凄い?
九重京子さんの、死因をご紹介します。
平成27年(2015年)の4月5日に「老衰」で帰らぬ人になっています。
享年94歳でしたから大往生ですね。
大正時代に産まれ、昭和の激動の時代を駆け抜けて、平成の時代に穏やかな眠りにつかれました。
特に、これといった大きな病気も無かったそうですから、身体がもともと丈夫だったのでしょう。
九重京子さんは、若い頃から女優を目指していた事から、人前に出ることも「苦」では無かったのではないでしょうか。
注目を浴びることも、ある意味「女優」としての名声を高めるための、手段の一つだったのでしょう。
「ストレスにも動じない」強靭な精神力の持ち主だったので、女優として「名声」を高めた後は、想いを寄せる男性との間に子供を授かり、紆余曲折はあったものの、相手の男性と結婚されています。
そして、その男性を看取り、お子様たちも健やかに成長しています。
九重京子さんは女優として女性としても、その後は、妻・母親としても、ご本人にとっては、十分満足な最期だったのだろうと思います。
最期は誰にでも訪れるものですが、激動の時代を駆け抜けて、途中修羅場はあったものの、最期は穏やかであったことは、凄いと思う方も多いでしょう^^
はた目から見れば「波乱万丈の人生」に見えますが、九重京子さんはそうだとは思っていなかったかもしれませんね。
死因も事故や病気とかではないので、寿命を全うされたわけですから幸せな日々だったと思います。
「女優なのだから、どんな人生でも演じ切って見せる」という、女優魂があったのかもしれないとふと思いました。
もしかしたら、九重京子さんの人生も「一つの役柄」と、思っていたのかもしれないですね。
九重京子の若い頃の松竹時代の顔画像(写真)は?
93【朝比奈灯子さん「九重京子か」】史実モデルと同様に歌劇団出身で #松竹新喜劇/鶴亀新喜劇に合流 ※こにたん(小西真奈美 似か)灯子さん(#小西はる)スターダスト所属(20歳)#藤山寛美 も(史実性)満州から生還!ある意味 “役者は揃った?”#おちょやん #杉咲花 #成田凌 #前田旺志郎 #浪花千栄子 pic.twitter.com/EeU3RJwvnx
— わび@さび (@think_literacy) April 13, 2021
九重京子さんの、若い頃の松竹時代の顔画像(写真)をご紹介します。
私は、とても「凛々しいお顔立ちだ」という印象を受けました(*^^*)
大阪松竹芸能での初舞台は、14歳の時ですが、この時は「稽古中に倒れた先輩の代役」として舞台に上がっています。
その後は、「男役」として舞台に立っているということから、女性的ではあったけれど、中性的な雰囲気もあったのでしょう。
タカラジェンヌも、女性が男役をしていますしね(^^)
今と昔では、多少のメイクの違いもあると思いますが、代々受け継がれていると思いますので、九重京子さんの、若い頃の松竹時代の顔画像(写真)を見ると基本的には中性的な顔立ちかなという印象を受けました^^
中性的なお顔立ちだけど、女性としての華やかさもあったはずです。
そうでないと、倒れてしまった先輩の代役なんてできません。
九重京子さんの若い頃の顔画像(写真)はとても少ないのが、女性でありながら、中性的な顔立ちなので「男役」もこなせて、華やかさを持っている「ミステリアスな女性」だったのではないかと思います。
九重京子の若い頃の松竹時代の顔画像(写真)は可愛いと美人どっち?
九重京子さんの、若い頃の松竹時代の顔画像(写真)は可愛いと美人どっちなのかご紹介します。
可愛いよりも美人という方がしっくり来ると思います(*^^*)
実際に九重京子さんは「男役」として活躍されていましたし、凛々しいお顔立ちだと感じますので、中性的な美しさを持っている人でしょう。
ただ、結婚されたくだりを考えれば、男役をしていたことに違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。
たとえ、「男役」をこなせるほど中性的であったとしても、役者を目指していたことから、女性としての見せかたもしっかり学んでいるでしょう。
当時は「男役」ができる人が少なかったと思います。
現在もですが、男役としてデビューをしたらそのまま「男役」として、演じ続ける場合が多いです。
それは、「娘役」は数多くいるけれど、「男役」ができる人が少なかったからではないでしょうか。
今でも男役のタカラジェンヌたちは、役作りのために「がっしりした体型」を維持するために頑張っていると言われています^^
そこまでして「男役」を頑張り続けてきた人たちは、男役を「引退」して、新たに「女優」としてスタートする人も多いですよね。
九重京子さんが、大阪松竹歌劇団を退団した後や、巡業中は「男役」だったのか「娘役」だったのかは謎の部分も多いですが、きっと退団すると同時に「男役」も引退していたのでしょうね。
そして、新たな劇団の旗揚げに団員として参加したのは「娘役・女優」としての、九重京子さんだったのでしょう。
その当時、九重京子さんはまだ20代です。
女性としても、これからの時期だったと思います。
若い頃の松竹時代の顔画像(写真)からは、中性的な美しさと、女性らしい華やかさも加わった「美人」だったことが伝わってきました(*^^*)
男役だけではなく、女優としても演じられるオールマイティーな役者さんだったのでしょうね(^^)
九重京子の若い頃の評判は?
九重京子さんの、若い頃の評判をご紹介します。
まずは、宝塚に入学した経歴を見ても、「整った顔立ちとスタイル」を持っていたことでお客さんから人気が出ます。
その後に、「大阪松竹歌劇団(OSK)」に入り直していますが、「宝塚に所属していた」という経歴を持っていたので、すんなり「大阪松竹歌劇団(OSK)」に入ることができたと言われています^^
松竹に在籍して14歳の頃に、舞台デビューをしていますが、その時は、稽古中に倒れた先輩の代役でした。
代役でも、14歳で舞台に立つなんて凄いですよね。
その後は、男役として活躍しています。
九重京子さんは男役を務められるほど、当時の女性と比べても身長も高かったのでしょう。
ご家族で写っている写真を見ても、旦那さんとの身長差がそんなになかったように見えました。
そして、不思議な華やかさも持っていたと言われています(*^^*)
とても不思議な魅力を持っていたのでしょうね^^
大阪松竹歌劇団を退団後は、しばらく巡業や歌謡ショーに出ていたそうですが、その後、再び松竹から、新しい劇団への入団を誘われています。
もしも、評判が悪かったら、ここで誘われることは無かったでしょう。
ですから、九重京子さんの若い頃はとても評判が良く、演技も素晴らしかったので、新たな劇団に誘われたのだと思います。
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九重京子のまとめ
九重京子さんの松竹時代の顔画像(写真)を見ると、宝塚時代は1年間しか活動していなくて大阪松竹歌劇団(OSK)では10年間以上も活躍しているので貫禄があって美人な印象でした(*^^*)
大正から昭和の激動の時代を駆け抜けた、女優さんです。
松竹で活躍していた経歴の時は、「戦争が始まり・終戦」を迎えた時でした。
松竹を退団した後は、役者としてだけではなく、全てのことに「貪欲」になっていたのでしょう。
九重京子さんの死因は老衰で平成27年(2015年)の4月5日に天国に旅立っています。
ただ晩年は、若い頃からあった「貪欲さ」が無くなり、「充実した一生」を迎えられたのではないでしょうか。
九重京子の経歴!死因が凄い?若い頃の松竹時代の顔画像(写真)は?
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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