田辺聖子さんは、大阪出身の小説家で恋愛小説・歴史小説・評伝など多くを手掛けた方です。
若い頃の顔画像(写真)や、死因などが気になる人は多いのではないでしょうか(*^^*)
2019年に、91歳で帰らぬ人になっています><
芥川賞や吉川英治文学賞をはじめ、紫綬褒章や文化勲章も受賞されている一流の作家さんでした。
スヌーピーや宝塚、ひっさつ仕事人のファンなどおちゃめな一面もあるのですが、昔からどのような女性だったのか気になりますね。
今回は、田辺聖子さんの若い頃の顔画像(写真)や、死因と生い立ち~生涯などについて見ていきましょう。
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目次
田辺聖子の若い頃の顔画像(写真)!
月曜日から、田辺聖子さん原案の朝ドラが再放送されるの楽しみすぎる
これは大好きなエッセイ
時にほほえみながら、時には涙しながら大切に読んできました
おせいさんのあたたかなお人柄と作品が大好き pic.twitter.com/qypgA6KpCP— (@sweetdreams_xx) March 26, 2022
田辺聖子さんの、若い頃の顔画像(写真)を紹介します。
大阪生まれで生粋の関西弁を喋っていた女性です^^
大学まで卒業している才女で子供の頃から本が好きで、子供向けの小説では満足できずに大人向けの小説も読んでいたのだとか^^
自分が読みたいだけではなく、書いてみたいという思いは小学生のころからずっとあったのでしょうね。
田辺聖子さんは、若い頃から小説家になりたい夢は持ちながらも、家計のために金物問屋に就職するなどしっかり者の一面もあります。
昔の顔画像(写真)を見ると、笑った顔が素敵で誰からも愛されるような印象がしました(*^^*)
↓
さっぱりした気性で、怒られても気にしないという関西人らしい性格で7年働き、弟と妹の卒業を機に小説家を目指すことになります。
相談できる友人たちにも後押しされて28歳でついに夢を実現します。
仕事で学んだ軽快な会話や、人間の機微については小説にも活かされているのですね^^
元気は伝染すると気づいたという田辺聖子さんは、いつでも優しくのほほんとした喋りが特徴です。
おっとりしているように感じますが、そのおっとりさが側にいてこちらもほんわかすることに繋がるのでしょう^^
田辺聖子の若い頃の顔画像(写真)は可愛いと美人どっち?
田辺聖子さんの、若い頃の顔画像(写真)は可愛いと美人どっちなのか紹介します。
晩年の姿は、垂れ目と垂れ眉が印象的です^^
スヌーピーが好きなのはどことなく、お顔が似ているからと言われています。
確かに、田辺聖子さんの、若い頃の顔画像(写真)を見たらスヌーピーに似ていて可愛らしいですね(*^^*)
どの写真でも歯を見せて笑う笑顔が印象的で、やや出っ歯な口元をしています。
子供の頃から垂れ目で優しい印象です。
田辺聖子さんには妹と弟が居て、しっかり者で優しい姉の雰囲気が伝わってきますね^^
くるくるした髪は天然パーマなのか、いつの顔画像(写真)もくるっとふわっとした髪型が可愛いですね。
生い立ち情報で、大阪樟蔭女子大学時代の写真では、大人っぽくなったものの小さいころと変わらないあどけなさの残る顔をしています。
このころまでは長い髪が印象的ですが、30代以降はすっきりしたショートカットが基本になります。
大人になっても、美人というよりは可愛い印象が強い田辺聖子さんですね^^
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田辺聖子の死因が凄い?
田辺聖子さんの、死因を紹介します。
天国に旅立たれたのは、2019年6月でした><
死因は総胆管結石による胆管炎のため、神戸市内の病院で逝去しています。
胆管炎は胆道閉塞による細菌感染が原因ですが、田辺聖子さんの閉塞理由は胆管結石ですね。
高熱や季肋部痛などがあり、黄疸も出るなど寝ていてもつらい状態が続く病気です。
また胆管炎は細菌が繁殖しやすく、容体が急変することもある病気です><
田辺聖子さんの死因になった病気は治療もしにくく、すっきり完治することが難しいです。
きっと、帰らぬ人になるまでに何度も入退院を繰り返していたことでしょう。
だけど、若い頃からいつも辛さを感じさせない笑顔を見せていても、無理して仕事をこなしたり苦労が多い私生活を送っていた時期はあったのかもしれませんね。
田辺聖子の若い頃の生い立ちを紹介
田辺聖子さんの、若い頃の生い立ちを紹介します。
出身地が大阪で、子供のことから小説をよく読んでいたと言われています。
戦時中は戦争で、命を失うことを本望とするなど愛国心にあふれていたのだとか。
そのせいで、若い頃の生い立ちは敗戦後に反動と喪失感から複雑な思いを感じる少女時代を過ごしたと言われています。
田辺聖子さんは、戦後すぐに父親を失ったこともあり、生家が焼失するなど生涯に渡って厳しい時代を生きることになります。
小説家を目指すもとは、15歳の時に文学誌に掲載された「さら」という作文なんだとか。
その後は、就職しつつ文芸活動を続けていたと言われています。
田辺聖子さんは、本格的な作家活動を始めたのは1956年の28歳の時に「虹」が大阪市民文芸賞を受賞したことに始まります。
1964年には「感傷旅行」で芥川賞に選出され、若手女流作家として人気を博していきます。
この時代に、SNSとか普及していたら顔画像(写真)がかなり拡散されて、もっと知名度は上がっていたでしょうね。
初めは古典文学寄りだった作風も徐々に大衆小説に移行し、エッセイや随筆も手掛けるようになっていきます。
田辺聖子の生涯を紹介
田辺聖子さんの、生涯を紹介します。
1987年から2004年まで、直木賞の選考委員にも選ばれていました。
芥川賞に選出されて以降も「ひねくれ一茶」で吉川英治文学賞と菊池寛賞、「道頓堀の雨に別れて以来なり・川柳作家・岸本水府とその時代」で泉鏡花賞を受賞しています。
2007年には母校である大阪樟蔭女子大学に田辺聖子文学館が開館するなど、若い世代にもその名が知られています。
田辺聖子さんは、若い頃から栄典受賞も多く「1995年の紫綬褒章・2000年には文化功労者・2008年には文化勲章」を受章しているので、本当に文学の才能が豊かだったことがわかりますね^^
2009年には長く住んでいる伊丹市で名誉市民となるなど、生涯をかけて取り組んできた作家活動が讃えられました。
田辺聖子の若い頃の評判について
田辺聖子さんの、若い頃の評判を紹介します。
芥川賞選出後から人気作家として多くの執筆依頼を受けていたのだとか^^
人気作家であったことがわかりますね(*^^*)
田辺聖子さんは、芥川賞は純文学に対して授与される賞であることから、その立場に枷を感じ「直木賞のほうがよかった」と冗談交じりに話したこともあるのだとか。
古典文学から歴史小説にも挑戦し、司馬遼太郎と親睦を結ぶなど交友関係も広かったと言われています。
SF作家との交流も長く、筒井康隆や小松右京とも交流していたので昔から多くの作家に慕われる存在だったのでしょう。
宝塚でも「新源氏物語」や「隼別王子の叛乱」などの作品が舞台化され、2006年には「芋たこなんきん」が製作されるなど長年にわたり活動されていた田辺聖子さん。
芋たこなんきんは、今までのエッセイなどをもとに製作された作品で、好評のうちに終了しましたね。
その後も朗読劇が行われたりしており、長年の執筆活動で獲得した多くのファンに親しまれています。
天国に旅立った際の報道には、田辺聖子さんの小説に出てくる名言に救われたという声も多いです。
ファンの方は、関西弁を喋る姿が好きだったという評判もありました^^
小説を通じて多くの読者を励まし、笑わせてきたのですね^^
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田辺聖子のまとめ
田辺聖子さんは、若い頃の顔画像(写真)を見ると少し歯が出ている口元をされていますが、笑顔が可愛いらしい印象でした(*^^*)
帰らぬ人になった後に、自宅で日記が発見され、「田辺聖子・十八歳の日の記録」として刊行された経緯があります。
生い立ちからの青春時代を戦争にささげた人生と戦後の復興の記録などが記されています。
「葬式はどんちゃん騒ぎで楽しく飲んだり食べたりしてほしい」と生前話していたそうで、天国に行かれた後のお別れの会は盛大に行われたのだとか。
生涯を通して、にぎやかで明るく楽しい雰囲気が好きだったんでしょうね。
今でも、小説作品は愛されており読者を励まし、笑顔にし続けています。
田辺聖子の若い頃の顔画像(写真)!死因が凄い?生い立ち~生涯を紹介
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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